飲み込まれ先

書くだけで結構虫酸が走る「自分探し」という言葉は、ベビーブーマーの時代あたりから流行りはじめたのかと思われるが、日本に輸入される時点で性革命とかニューエイジとかいう「炭酸」が抜けたものになっている。団塊の世代だから大企業に入るのも大変、ということで流行したドロップアウトごっこ、というあたりに落ち着いたわけだ。その後、わたしぐらいの世代が若い頃には、企業メセナなんかで文化に予算がつくようになった影響で、「ちっぽけな自分」という存在の「飲み込まれ先」が、アコースティックギターとかではなく、小難しいアート系の映画みたいなものに変わった。しかし時代変わって、今や、「どうせ飲み込まれるなら、ハリーポッターの映画みたいにちゃんとお金がかかったものがいいです」という空気が濃厚。(つまり、元を取りたいという消費者意識!)
そうなってくると、映像のように「予算の見えやすいジャンル」で芸術をやろうとすることは著しく不利だなーと思ったりもする。(だからといって、札束で頬を叩くようなエンタメにすべてが飲み込まれるとは思っていませんが。)デジタルに還元できるすべてに関しても、事情は同じだろう。そのような理由で、今後、活字文化(〜本当は今や活字ですらないが〜)に意外や利点が多いのではないかとひそかに考えている。(文=目黒条