トラウマティック・モチベーション

ピート・○ウンゼントが小児ポルノのサイトを見ていたのが問題になったとかならないとかいう報道があったのは、確かそれほど大昔ではなかったと思う(結局「罪人扱い」にはあまりされなかった記憶がある)。そのとき、これは典型的な「トラウマに戻っていきたがる症候群」だなと思った。彼自身がたぶん児童虐待を受けたトラウマを持っていて、それが如実に現れたのが『トミー』であることはある程度有名な話だが、トラウマを持つ人がトラウマの現場に戻るような行動をとりたがる場合がある、という話の方はあまり知られていない事実かもしれない(普通「トラウマ」を思い出すとPTSDになっちゃうんでしょう?と受け取られているだろうから)。
トラウマ体験が芸術表現の動機になっているケースは枚挙にいとまがない。日本文学で言ったら萩原葉子『いらくさ(本当は漢字表記)の家』とか。…で、理屈上、そうやって表現して「トラウマを乗り越える」はずなのだが、芸術家の場合、創作の原動力となったそのネガティブなパワーが「自分にエネルギーを与えてくれた」という思いがあるせいか、その後何度もトラウマの現場またはそれに似た場所に戻って、同質のインスピレーションを再度得ようとしたがる傾向があるように思う。それがピート・タウン○ントのケースだろう。(注・萩原さんの場合はフラメンコやって自分を愛することに目覚めるとかして、ちゃんと脱却なさったようにわたしは思っていますが。)
芸術家に限らず、「あのとき死にかけた」というような壮絶な経験の持ち主が、普通で考えたらそれは二度と思い出したくないはずだろうというようなトラウマ現場になぜか戻っていきたがる、という場合がある。トラウマ体験が、一種のピーク・エクスペリエンスとして入力されてしまったということなのかもしれない。
最近、いろいろと考察するうち、わたしが至った結論は、「トラウマの現場に帰る」というのを反復していくうち、「トラウマ追体験」はリスが回転車の中を一生懸命走るようなものにだんだんなっていく、ということ。自分は「ああ、生きてる、走ってる、というこの感じなんだよね!」と擬似高揚感を感じて一生懸命走り、カラカラと車を回しているのだが、その実、単なる無駄っぽい永久運動にすぎず、どこにもたどり着かない。成長する気がなければ、それで一生食っていくことができる(…あるいはその経験に生涯心を満たしてもらい養ってもらうことができる?)のかもしれないけど、客観的に見るとあまり生産的なことではない。
最初に書いたのはたとえ話であって、ロックの神様を批判したり中傷したりする意図はなかったのですが、ちょっと目をこらして観察すると、身の回りにこれに類する例はいくらもあると思う。トラウマというほど大袈裟なものでなくても、誰の中にも多かれ少なかれ、似たような要素はあるものだ。人のふり見てわがふり直せ、で、この「リスのグルグル車」の外に出ることを考えるというのが、人間にとってかなり重要なことではないかと思いました。(文=目黒条