放送委員会

エコーのかかった運動会のアナウンスメントの聞こえてくる、小学校の隣のカフェでコーヒーを飲んでいたら(コーヒー断ちまではできなくて)、自分の小学校時代のことをまざまざと思いだした。
ああいうアナウンス、やっていた。走るのとか苦手だったわたしは、高学年になると放送委員という恰好のポジションを得て、運動会ではいつも本部テントの下に座っていた。大人しか座れないはずのそんな席で、アナウンス係をやったり、渋い表情でフェーダーを操作したりできる子供は放送委員だけ!なのだった。
運動会に限らず、放送委員というのは普段から特権が多かった。自分の「担当曜日」のお昼の校内放送の時間には、「じゃ、仕事行ってくるわ」みたいな感じで放送室に「出勤」。給食は、クラスの給食当番の子が一人分だけわざわざ放送室まで運んでくれた。すごいVIP扱い。放送室は、顧問の先生がいちいち来るわけではないので、放送委員の子たちだけの無法地帯。牛乳を窓から花壇にジャーッと捨てたりとかできて、嬉しかった。
放送委員会に入る子の中には、児童劇団に入ってますとか、テレビに出るような合唱団に入っていてドリフの後ろで歌ってますとかいうようなのが結構いて、お昼はたいてい、そういうこまっしゃくれた女子たちとともに、マイクを持って(本物がいくらでも置いてあるので)ピンクレディー大会を繰り広げていた。メンツがそういう感じなので異様に本格的で、異様に盛り上がり、すごく楽しかった。しかし、あの美貌の子たちは、今頃どんな女性になっているのかなあ…?
お昼の放送の番組に関しては、出来合いのテープまかせでそのように遊んでいる時もあったけど、ときどきはクリエイティブな生放送を企画したりもした。わたしは「演劇部」にも入っていたので、そっちの生徒たちを集めて放送劇をやったり…。もちろん、作・演出はわたし。そういえば、毒をしみこませた本のページを「もっともっとめくってください」と言って、指をなめてめくらせ毒殺する、という恐怖劇?を書いたこともあったっけ。『薔薇の名前』を見て、あらら、あの子供芝居とオチが同じだ…と思ったけど、よく考えたらあれは親の話してたストーリーをパクったのだったな。
こうして考えてみると、あの頃やってたことは今と物凄く違うというわけでもないような気がする。ただし、「木曜班のディレクター」という、今きくと笑ってしまうような肩書きは、なんだか現在よりカッコいいような…。「マスコミの人間は特権的」という感じが強まったのがちょうど70年代で、そういう風潮が小学校にまで入り込んでいた、ということなのでしょうか。(文=目黒条