イタリ「ヤ」の修道院、あるいはシャツの名前

今週唯一の娯楽として、いにしえの映画『薔薇の名前』をDVDで見た。昔見たはずなのに内容はほとんど忘れていて、完璧に新鮮だった。実は公開当時はパリの映画館で見たので、それで理解が浅かったのか? 今のわたしが英語で見てさえ、clergy(聖職者)とかなんとか、英語字幕が出てないとキャッチできない単語がいろいろ出てくるのに、仏語字幕(仏語吹き替え?)があったぐらいで、当時のわたしがついていけてたとは到底思えない。
…と若かった頃の自分を見下すような発言をしていますが、実は仏語能力の方は、当時のわたしの方が今のわたしより高かったでしょう。長らく使わないうちに、もう全然喋れません状態になってしまった。なんのためにやってたんだ、と思うと、とてもむなしい。しかし、今でもフランス語の雑誌なんかはたまに読みます。フランス人、英語っぽい固有名詞をいちいち変えるという意地を(ウォークマンとか言うとフランス語が乱れる、の類)インターネット時代以後完璧に放棄してしまったのね、というのを目のあたりにすると、時の流れを感じてしまう…。
薔薇の名前』から話がそれましたが、見終わって、「ウンベルト・エーコの小説も絶対買ったはずだけど、どうしたかな?」と血眼になって探すも、とうとう見つからず。度重なる引越しを経て、どっかに行ってしまったのだろう。しかし、当時のわたしがちゃんと読んで理解したのか?がとても疑問。今となっては、映画の中で、羊皮紙にレモン汁で書かれた(あけましておめでとうのあぶり出しみたいに)秘密のゾディアック記号とか言ってたあたりに大変心ひかれ、即、小説で確かめたいという欲望があったのだけど…当座、諦めました。昔の映画を見ると、なんか、いろいろむなしい。
しかし、映画もなかなか頑張っていて、いい作品だった。これを単なる「ミステリー」扱いする奴は地獄に落ちろ。修道院も一種のカルトみたいなもので(こういうことを書くと誰かに怒られるのかもしれないけど)、「カルト・フォービア・おたく」(ちょっと意味不明ぎみですが、「アンチ巨人ファン」みたいなニュアンスです)のわたしとしては、こたえられない楽しさ。
エーコといえば→記号論→といえば、きのう新宿で、「シニフィアンシニフィエめちゃくちゃシャツ」を着ているおばさんに出会いました。小さな四角いカラー写真が何百個もコラージュされている凄い趣味のシャツで、そのひとつひとつがピューマだのライオンだの、色あざやかな鳥だのという、いかにも「アフリカの動物」というもの。…なのに、その一個一個の写真のキャプションみたいにして「ITALIYA」(←こういうスペル!なぜかYが入ってる!)「ITALIYA」「ITALIYA」という字が執拗に!! 絵じゃなくて写真の、リアルなアフリカの動物たちに、なぜイタリ「ヤ」? 大江戸線の長〜いエスカレーターに乗っている間、奇っ怪なそのおばちゃんのシャツをずっと見上げながら、わたしの頭の中では「これにはいかなる芸術的主張があるのか?」「これはパイプではない、みたいな記号の遊戯か?」「ミシンとこうもり傘の出会い?」などの思いが交錯していた。ひょっとして「趣味が悪く頭が悪いだけ」を装った、なんらかのコードなのかもしれない。諜報員だけに情報が伝わるような…。
現代小説ではよく記号的な意味をずらし、意味生成をかく乱するなどの手法を使いますが、おばちゃんのシャツによって、わたしの頭もすっかりかく乱されまくり。でも、たぶんおばちゃん本人は「このブラウス、いかしてるわね」とか言いながら買っただけなんでしょう。外国の空港で知らない間に運び屋にされてしまうナイーブな観光客のように、何にも知らないこのおばちゃん、なんらかの陰謀に巻き込まれてるとか…?(文=目黒条