自然淘汰

豚フルに関する記事を読みながら考えた。「地球上で、人間にだけは天敵がいないので、その代わりに戦争や天災や疫病が起こって人口を減らすのだ」とかいう暴論っぽいことを言う人がときどきいるけれど……さすがにその説には賛同しかねる。でも、関連して思ったのは:
現代社会では、人間が自分から「淘汰」の中に飛び込んでいく機会が少なくなっている。最近、わたしは密教について勉強していたのだが、チベット仏教などの過酷な修行をした結果、生き残る率は五十パーセントぐらいだった、という記録があるのだそうだ。つまり、半数は発狂して死んだりとかした。
現代の感覚だと、そんなリスキーな修行に自分の子が入ると言いだしたら親は泣くだろうなあ、などと思ってしまうが、昔は、子供も生まれてから何割かは死ぬからたくさん産んどこう、というようなアバウトな考えでみんな生きていたのだ。遣唐使とかだって、かなりの確率で沈むかもしれない不確かな船に、平気で重要人物を乗せて、「帰ってくれば儲けもの」という精神でやっていた。人命をかけてでも、文化輸入をしたかったということだ。
しかし、現代でも、自分からわざわざ淘汰の中に飛び込んでいく話というのは皆無ではない。チベット仏教の話を読んで思い出したのが、ある有名な舞台関係アーティストが言っていた、「若い頃一緒にやってた人の中には、何割か、明らかに発狂している人がいた」という話。つまり、芸術というのも、飛び込むと結構リスキーだ、ということだ。もしも芸術が現代の密教なら、その道に入って、失敗した場合は発狂し、成功した場合は即身成仏(?!)できるということか?
わたしは、自作『免罪…』に登場させた自然食品店みたいな店の名を「ナチュラル・セレクション」にした。これは「自然淘汰」という意味で、ナチュラル万歳、自然が一番、という牧歌的な考えに対する、ある別の見方が入っている。それは単純な「皮肉」とかいうことではありません。自然というのは「やさしい」とか(あるいは「おそろしい」とか)いう人間的観念を超えた、別の次元で運営?されているものなのだ、ということ。密教の人たちが生きてるうちに悟りをひらいて知ろうとしたことは、あるいは芸術が目指そうとしているものは、そういう次元にあるのでしょう、きっと。(文=目黒条