ゾンビ・死体

また「借りっぱなしです」という催促メールが来てしまったので、レンタルDVDの『プラネット・テラー』を泣く泣く見る。自分が見たかったから借りたわけで泣くことはないんだけど、このプラネット…とともに「グラインドハウス」の片割れであるところの『デス・プルーフ』を映画館で見たのは二年ぐらい?前なのではないかと思うと、時期的にいかにも遅く、イケてない感じだ。それでもいやいや見てみたら、プラネット・テラーに侵されたゾンビの顔があまりにも気持ち悪く、あーあ…辛いなあ…何の因果でこういう映画ばっかり見るのか…とほとんど我慢感覚になってくる。しかし、見終わったらなぜかやっぱり充実感。ああ、見てよかった!本当によかった!と思わされた。どうしてゾンビものが好きかというと、鑑賞後に非常に爽やかな気持ちになれるからなのだった。
ゾンビというのはいろいろな感染性のものの謂なのであろうが(イデオロギーや陰謀なども含み)、しかしそういう深いことは考えなくても、鑑賞後に普通に外を歩くと「ああ、とりあえずここはなんて安全で平和なんだろう! 気持ち悪い奴が襲いかかってくるなどということも全然なく、わたしはなんて幸せなんだろう!」という幸福感を味わえる。ゾンビ映画って本当に素晴らしいですね。
死体に近いようで、どっこい生き続ける、というのがゾンビの地獄。これは、死体そのものへのネクロフィリア的な欲求が生み出した変なフィクションなのかもしれない、と思う。
ところで、仏陀は「性欲を超越するための修行として死体を観察しなさい」というようなことを言ったそう。死や死体の観察にはそんな効用もあるのかと思うと、興味深い。本を読んでいたら、「タイでは、お坊さんの修行のために、病院が検死解剖を自由に見学できる日を設けている」と書いてあった。(現在でもそういうのがあるかどうかは知らない。)普通の感覚で直視するのが気持ち悪いリアリティと向き合い、観察することで、たぶん「肉体とはこのようなものなのだ」という事実を感覚にしっかり叩きこむのだろう。そうしておけば、エロスとタナトスとの混線などは確実に防げるはずだ。
生の範囲内に存在していても、「死体になって腐敗し、崩壊していく前段階に自分がいる」ということがきちんと認識できるなら、人間はずいぶんと幸福になれるのかもしれない。(文=目黒条