アイスクリームからパイナップルまで

飲酒を完全に止めたので、その代わりに、甘いものに執着するようになってしまった昨今。要するに味覚がお子様化してきたわけだが、なつかしいサーティワンのフレーバーをあれこれ確認したりしていると、「プルースト効果」に打たれて昔の記憶が急に蘇ったりする。
過去へのノスタルジーが大嫌いで、現在、自分の過去の写真を一枚も持っていないのが自慢(さらに言えば、離婚後はカメラすら所持してないので、この先スナップとか撮る気も一切なし!)のわたしでも、味覚アーカイブに所蔵されている記録は捨て去ることができません。
味覚から記憶が蘇るのは必ずしも結構なことではない。というのは、過去とはたいてい碌なものではないので、当時の感情が蘇ると一瞬PTSDになりかけたりする。でも、大人だからそこは分析的になって対処、「いや、実はあの事にはこういう隠れた意味があったのだ」などと新しい発見へと持っていくことに成功したりする。(大人だ! 伊達に人生後半に突入していない! しかも実用的!)
「転んでも只では起きない」とばかりにネタや教訓を拾ったあと、「過去に勝利した」という余裕たっぷり気分でもう一度「味覚の歴史〜甘味編」そのものに立ち返ってみる。
昔はやったけれど消滅したスイーツ(なんて当時は言わなかったけど、)のひとつに、「プリンアラモード」なんていうのがある。カスタードプディングにイミテーションクリームがのっていて、バナナやスライスメロンが添えてあった。懐かしいには懐かしいけれども、今もし再現されて出てきたら、それほど美味しくはないんだろうなと思う。そういえば、「バニラアイス」に、うすぺたいウエハースが必ず添えられるという文化も、気がつけばパ・ア・ラ・モードになって完全に消滅している。あのウエハースにいたっては、当時から「別に美味しくもないけど、これは様式美なんだろうな」と思っていた。正式にはどう食べるとエレガントなのかも、よく分からなかったし。
流行というのが「はやりものの神通力」を失った瞬間に廃れるのは、ファッションだけの話ではない。
この前、父が「昔は(たぶん五十年前とか)パイン缶がものすごい贅沢品だった」という話をしていた。入院している人のお見舞いなどに持っていくと、すごい勢いで喜ばれたそう。また、知り合いのおじさん?などが、かなり疑わしい謎の外泊のあと、家族にパイン缶を買って帰ってくる(―みんながパイナップルのありがたさに目を奪われて、すべてが平和裡に済んでしまう―)というような最終兵器的な使い方もしてたらしい!
パイナップルは、高級品として珍重されていただけでなく、記号的な意味でも、ある種の強烈なエキゾチシズムを感じさせる魅惑のアイテムだったのだろう。
この話を父に聞いて、ミュージカル『キャバレー』(…あれを訳したのももう二年以上前の事となってしまったけど…)で、果物屋のシュルツさんが下宿屋のシュナイダー夫人にパイナップルを贈って口説き落とし結婚するというエピソード、およびミュージカルナンバー『パイナップル・ソング』の「魅惑のエキゾチシズム」のニュアンス、が一気にわかったような気がした。第二次大戦前後は、パイナップルとはそういう地位にあった特別な果物だったんだ! なるほど! さらに言えば、パイナップル信仰からは、どことなく植民地主義的な陶酔も感じとれるような気がする。よくよく考えたら、人間はスパイスだのコーヒーだのエキゾチックなフルーツだのといったものへの欲望のために、侵略までするんだな、という底知れない恐怖すら感じさせてくれるのが、あの甘い歌なのだった。(文=目黒条