オープンな芸術

メトロポリタンオペラが映像を公開しはじめた、という記事がニューヨークタイムズに出ていた。オペラのチケット代は安いものではないので、ありがたいといえばありがたいことなのだが、当然のことながらこういう動きには反論もある。
芸術に関しては、「大衆的でないものや伝統的なものを保護するか?」ということに関する議論はいつもあった。その一方で、アメリカ的・インターネット的な「なんでも気前よく公的なものにすべき」という考え方が昨今はかなり目立つようになってきている。
考えてみたら、産業でも、保護されている業界に碌なものはないのだから、自由競争というのは大事だが、文化に関しては、自由競争にした結果世の中がエンターテインメントだけになって、芝居も文学もすべて「日本の民放のテレビ番組」のようなものと化してしまっては、それは大変なことだ。「闊達な競争」と「大衆化・質的堕落」の間を埋める良心が、何かなくてはならない。その一つがたぶん、アメリカ的フィランソロピーの精神なのだろう。
なんだかものすごく基本的で簡単な話をしていますが……万人向けではない純粋芸術的一派が「助成金をもらって勝手にやってるみたいだけど、ほとんどの人は、そんなのの存在すら知らない」ということになれば、それは密室の中での自己満足に税金が支払われていることになる。というのの問題点を、「オープンに、パブリックに」というネット配信的な発想は解決しているように見える。ただし、それはフィランソロピーに支えられてこそ、の話なのだろうけれど。
不況で真っ先に切られるのは「文化」であるという悲しい法則もある、だからこそ先回りして、「損して得取れ」みたいなプラスの発想で、健全なオープン性と矜持を両立できる活動を、個々のアーティストなりアートカンパニーなりがする――それが理想だ。「その環境がなければ、その環境をどう作るか?」ということをかなりアグレッシブに構築していかなければならない。世の中の誰もが必死で「生き残り」を考えている今、サラエボで芝居やってた人のことを胸に、文化も積極的に前進しなければならないな、とMetのことを読んで思った。(文=目黒条