変節という観念

安部公房の『榎本武揚』を読んでいる。かつて勤めていた劇場でこの作品の舞台をプロデュースした際、作者張本人とお知り合いになれたという昔話もけっこう遠い過去のもの(数えてみたらなんと17年前だ!)になってしまったが、その当時、実はわたしは「変節漢」という言葉が深くは(実感としては)わかっていなかったのでは、ということに今気づく。
変節漢」とか「日和る」とかいう言い方じたいがたぶん全共闘後ぐらいに廃れ、もう古臭いものになっている。忠義なき世の中に「変節」という観念なし、だ。年功序列という考え方も「ぶっ壊した」日本においては、人生をどう路線変更しようが何の罪悪感もないのだ、ということになった。もうひとつ言えば、「情報化社会に変節なし」――今は、その時々の情報をキャッチして価値判断をする時代だ。忠義なぞという深いコミットメントより、情報の合理性を重んじる。
それが悪いことだとも思っていないし、それを裁こうというのでもないが、よく考えたら、そんな世の中において「セクシャルファンタジーとしてのイデオロギー」とかいくら言ったって、二十代ぐらいの若者にはまったく理解できないだろう。イデオロギー不在とかいう以前に、「変節」という観念自体がないのだから…。(文=目黒条