歴史に関するメモ

最近は結局のところアメリカ文学を読むことが多いわたしなので、話はわりとその辺に偏るかもしれないけれど、近年の文学は「個人の意識と対応させた歴史検証」という感覚に貫かれているものが多いように思う。ピンチョンとかパワーズとかには大変明確にそれを打ち出して成功した作品があるし、もう少し凡庸な作家でも、その辺はどこかで絶対押さえている感じだ。
歴史といってもアメリカ人は四世紀分ぐらい検証すればいいだけだから気楽でいいよね、というような皮相な見方もできるが、だからこそ執着する感覚というのが、また「もののあはれ」なのだろう。
日本人は歴史読み物が大好きな国民だ。でも、そういう読み物は一般的に「武将の戦術を学ぶ」「ヒーロー像に自己投影」といった擬人化?的な読み方をされてきたように思う。それでもいいけれど、それだけじゃつまらない、日本人はもっといろいろトラウマ的大波かぶってるでしょ?と思う。第二次大戦のところでブツっと切られた、そのあとの戦後民主主義の部分から、(皮肉にも)アメリカと同じような「もののあはれ」が出るはずだろうよ、と。そういう観点からの「歴史検証」が、なぜか文学サイドからはあまり出せてないように思う。批判してるんではなくて、そこが盲点というか、そこをやるべきだからやろうよ、という意見。もう少し強く言えば、そこにしか可能性はないんじゃないの、と個人的に思っています。もちろん、「歴史物を書こう」とかいう話ではなく。(文=目黒条