エモーショナル・プロジェクト?

遠い昔になりつつあるが学生時代、わたしがいた学部ではシニフィアンシニフィエとかそういうのが大事だったので、文学をやるにしても「テキストがすべて」で、作家論とか伝記とか読んでる奴はバカにされるという風潮があった。しかし、そっと告白すると、実はわたし、けっこう伝記が好きだったので、隠れて読んでました。で、今も依然として伝記好きで、トロワイヤの書いたフローベール伝の翻訳が出たのを喜んで読んでいる。
それで書簡などを読んでいて、改めて思ったのが、十九世紀の人もそうだし、大昔の日本人とかはもっとそうだけど、「過去の人々は概して今より、大げさに詠嘆したり、感情のふれ幅をわざとみたいに大きくしてわーわー騒ぎたてるのが好きだ」ということ。これは半分は意図的にやってる、というか、たぶん文化的テクニックなんでしょう。自分の中の何かを鼓舞して何かを引き出す、というような。つまり、昔は外的刺激が少なかったので、必然的に、いわば自家発電のように自分の中から興奮を抽出しなければならなかったのだ。それによって何かをスパークさせようとした――言い換えれば「エモーショナル・レベルでの発見を、インテレクチュアル・レベルでの発見につなげよう」という一種のプロジェ(企図)というか、知的試みなのでは? だから、ロマン派とかも、実は二十一世紀の人たちが、感情から入って額面どおりに受け取ろうとしても結構間違いで、そういう風にはできてないんじゃないの?というのが、今日のわたしの思いつき。(文=目黒条