ヘンリー・ダーガー

 『さらばイアン・カーティスの光』(←違うのはわかってるけど一度思い込むと修正がきかないです)を見逃したので、今度こそはシネマライズ上映作の見逃しを防止しようと、もうすぐ終わるヘンリー・ダーガーの映画を、頑張ってライズXに見にいってきた。
 ダーガーの気持ちは、わたしはかなりの勢いで、わかる。というのは、幼児の頃、わたしもいつも頭の中でああいう感じのお話を絶え間なく作って、現実逃避している子供だったからだ。それをそのまま(というか、かなりの割合で)使って書いたのが、拙著『カルトの島』の中の一篇『絵皿の家』という短編なので、読んでいない人は是非読んでみてください。書いたあとで気づいたのだけど、偶然にも、かなりダーガーの「ヴィヴィアン・ガールズ」っぽい世界です。(高橋将貴さんの表紙はこの短編の絵なのですが、ものすごくこの世界を理解してくださっている作品でとても気に入ってます。)まあ、基本的にわたしのやってることは、かなりアウトサイダー・アートっぽいのかもしれない。違うのはダーガーほど滅茶苦茶プロダクティブにはなれません、という点。
 ダーガーは知的障害だと思われて施設に入れられて、あげく農場で強制労働をさせられて脱走したりなど、幼少時代がひどく不幸だったので、それゆえ「子供奴隷」というテーマを執拗に追求していたのだと思われる。これで思い出すのがマクドナーの『ピローマン』。幼児期のトラウマがすぐれた芸術作品を作り出すならと、書くことの好きな少年の両親が、少年の兄にわざと幼児虐待をやってその恐ろしい音を弟に聞かせる。それがトラウマになった弟はみごと作家となる――虐待によって知的障害になった兄の面倒をみることを引き受けながら。そして最後は兄を殺してしまうのだが、兄弟の共通のファンタジーは、子供を窒息させて殺す「ピローマン(まくらさん)」という大きな枕のお化けみたいなのの、悲しいお話(弟が作った)。
ダーガーはこの兄弟二人分の役割を、ひとりでやっているようなものだと思った。
 しかし、ダーガーの表現はもはや「創作の世界」「逃げ込み場所へのエスケープ」という感じですらなく、その世界がはっきりと「ある」んだということを伝えている。自作をまったく公開する気がないまま、一人ぼっちの部屋で絵を描き続け、お話を書き続けていたダーガーという人に関して、世の職業的アーティストたちやpublished writersはただうちふるえるばかりであろう。(文=目黒条