ジャンルの死守?

 先日、新聞に「フランスの日本料理店がちゃんと伝統にのっとった日本料理を供しているか、ということを一定基準にのっとって検査すべしという話が一度出たが、それは無意味だと思う。洋菓子に、抹茶などの日本の素材を使って素晴らしくマッチさせ、天才的なケーキを作っているパティシエなどは積極的に評価したい。そういう実験の隙を与えない狭量な『伝統』なんてものはないのだ」というような趣旨の(かなり大胆に記憶でダイジェスト)、外国人記者のエッセーが出ていたので、大きくうなずいた。
 「伝統」というのも考えてみたらあやふやなもので、歴史的に非常に浅いものも実は色々取り入れながら存続されている。だから絶対的な「伝統」の定義なんてない。日本食と言われているものには、明治以降に初めて日本に入ったような食材が平気で含まれている。今上演されている歌舞伎には、電気の照明が使われている。どんなジャンルもいろいろと新しいものを取り入れている。
 少し話はズレるようだが、関連して考えたのが、文学の中に「文学由来成分」があまりに多いと、うわ〜脆弱〜と感じる、ということ。つまり、本を下敷きにして書いた本、というようなことが言いたいのだけれど、そういうのは近親結婚で血が濁ってくるような、いやーな印象を残す。SFとかミステリーとかのことは、この十年ぐらいほぼ一冊も読んでないというぐらい縁がないのでほとんど語る資格がないが、たぶんそういう風にジャンル毎のコードをひどく重視する小説でも、あまりに「SF由来のSF」「ミステリー由来のミステリー」になると脆弱になってしまうのではないかと想像する。
 シュールレアリスム小説が「暗黒小説成分」をブレンドして面白くなったように、いろいろ混血させる方が断然いいんだと思う。芸術上の「シェフの気まぐれ創作料理」は、時に奇跡的なものを生む、とわたしは信じている。
 私小説なんていうのは「自己由来成分」が多いとでも言うのだろうか? それでも、面白い私小説には、実は他の成分もバランス良く含まれているもの。自己由来成分だけでは、作品としてなんとなく安定しないはず。
 理想的なのは、すごく贅沢にいろいろな成分をブレンドしてあって、各成分をあとでどんなに分析しようとしても、「これはどういう成分なのか、謎!」という何かが必ず残るもの――ではないだろうか。文学に限らず、美術でもなんでも、芸術全般に言えると思うのだけれど。(文=目黒条