不易流行を越えて

 グラムロックというようなものの歴史がおさらいしたくて、ちょっとyoutubeで検索していたら、間違えてデイヴィッド・○ウイをひっかけてしまった。ローとかは大好きだったのに、レッツダンスあたりで失望越えて怒ってしまった…という人は多かったはずだけど、わたしもその一人。今ボ○イの中期以降の映像にふれると、痛ましくて見ていられないです。コアが全然なくて。
 このあいだうち、老いたる○ュラン・○ュランがアメリカのテレビに出て懐メロ歌っていましたが、ガールズ・オン・フィルムズとかあの手の、なんでしょうニューロマンティック??ああいうの、今聞いてもちっとも懐かしくないし腹が立つばかり。あの世間をナメきったバブル感というか、なんの痛みもフィロソフィーもないあの感触というか、パンク的な精神を土壇場で裏切り「そっちに行くのか?!」と唖然とさせた馬鹿げたファッション性というか…。ちょうどそのぐらいの時代には「十年前の流行を見ると小っ恥ずかしいが、二十年前のものはすごくクールに見える」とか言われていたけど、それは80年代から見てヒッピーやってた70年代が小っ恥ずかしく&60年代的なマテリアリズムが素敵に見えた、というその時代にしか通用しない定規だったのだよ、と思う。80年代のもの、00年代に見ても全然素敵じゃない!(一部例外あり)
 個人的には、90年代にグランジとかマンチェスターとかそういうのになってくると全然興味が持てなくなり、というか流行音楽全体にまったく関心がなくなって、やっぱりピナ・バウシュは凄いとかそういうことを思う舞台芸術側の人にどんどんなっていったので、もうそれ以降は世間的な流行の流れというものをあまり理解してない。音楽に関しては。しかし、まあとりあえず文学とか演劇とかの流行はわからなくはないので、その後、地球全体の芸術表現が、おんなじことの繰り返しみたいになっててあまり進歩してないのではないか、というような概観だけは掴んでいる。80年代以前に「大真面目に反体制」「その真面目さに反発して虚無的・反抗的に!」とかいろいろやりつくして、90年代以降はたぶん人々が疲れてしまったのでしょう。
 「さて、これからの潮流は…」というようなことを言うほど軽薄なことはないと日頃思っているけど、流行現象ってことからいったん離れて、00年代過ぎて10年代になったら人々がどんな心性になるのか、ということをちょっと考えてみる。たぶん、もういいかげん皆さんの中で「何かを変えたい!」という気持ちが沸騰してきているはず。しかし、90年代から00年代にかけては社会的に共有してきた文化・教養のようなものが希薄なため、集団的無意識の中の「チェンジ」が形にならない…形になるだけの素材が精神の中にぜんぜんない…あるのはパソコンの知識だけ…という状態になっているように思う。富裕層は「経済の変化」にしか興味ないとか、貧困層は「風水で運命変える」とか?みんな意識の持ちようがバラバラでスカスカな感じになっているんだろう。変容って、何を変容すればいいの?というところを埋める、分かりやすいフィラーが必要となってくるだろう。かつぎ出してくるとしたら、もう「身体性」ぐらいしかないか? 他に共有できるものがないんじゃないかって気がしてる。(文=目黒条