オスカーwild

変なタイトルをつけてしまったが、今日書きたいのは十九世紀イギリスの有名な作家/劇作家のことではなく(そのワイルドには最後にeが付きますね)、アカデミー賞のこと。日本のマスコミが、ノミネートされた人や作品が数ある中で「おらが国の代表!」ということばかりを問題にし、あげくの果てに「○○(←日本人の名前)、賞逃す」などと書きたててしまうの、なんとかならないのだろうか? オリンピックでもあるまいし、「日本人だから応援する」というのもおかしな話だし、結果的に「逃した逃した」と騒ぐことによって応援の反対、冒涜になってしまっているのではないか。
 芸術作品を(ハリウッド作品がすべて芸術作品なのかどうかはさておき)、他人がジャッジしたり、作品どうしを比較したりするのは、そもそも芸術に対して失礼な話で、こうした「賞」というものに積極的が意味があると、あんまりわたしは思っていない。映画人たちはもう精一杯仕事をし終わったあとなので、オリンピックのように「これから記録を争う」競技とはまったく次元の違う話であり、まあ言ってみれば単なる「プロモーション祭り」だ。本当の意味で結果にやきもきしているのは映画会社の宣伝部だけでしょう。
 ただし、賞といっても演劇の賞の場合は、公演も全部終わってから評価される場合が多いので(ロングランしているブロードウェイ作品などは例外だけれど)、受賞しても売上げに直結せず「プロモーション祭り」性がうすく、賞としては割と正当性?が高く良心的なのではと思っている。演劇人口の少ない日本においては、ふだん観劇習慣のない人たちに、よい作品や作り手の名前を知らしめるという事だけでも大きな意義があるし。…というわけで、長塚圭史さんが読売演劇大賞優秀演出家賞受賞、と聞いて素直に喜んでおります。明日のお祝いのパーティーには、多数の締切でドロドロになった姿のまま伺うことが予想されますが、ウィートーマスも対象作品のひとつらしく、スタッフの一人として心の底から嬉しいので、「おめでとう」を言いにいきます。(文=目黒条