『闘争領域の拡大』

 ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』読了。あの傑作『素粒子』の元になったともいえる処女作だ。わたしがここ十年以内に読んだ作家の中で一番共感してる作家がウエルベック、わたしが十年以内に読んだ翻訳文学の中で最も優れていると思うのが『素粒子』(野崎歓先生の翻訳も素晴らしい!)で、あまりに好きなため、英語版、フランス語の原作、と次々本を買いこんでしまったほど。もちろん『プラットフォーム』も大好きだった。そういうわけで期待度300パーセントで『闘争…』を読んだら、やっぱり『素粒子』を初めて読んだときと同じ感覚に襲われた。その感覚とは、主人公が自らの不幸をロジカルに突き詰めていこうとしてるのに、不可抗力によって事態がフッと反転してしまう、そのどうにもならない虚無感のようなものだ。ウエルベックの作品に共通してるのは1.「モテない男」が出てきて、自らのダメっぷりを熟知してるがそれでも自分に可能な性的探求をしようとあがくこと、2.そして小さな希望を見つけたとしても、それが不可抗力によってあっという間に消えてしまうこと、3.そういう西欧的な欲望追求社会自体を屋台崩しのようにぶっこわそうとするテロの脅威が常にある、ということ。『闘争領域の拡大』の闘争領域とは、まあ要するに競争社会のこと。強者だけが幸せを手にする資本主義の枠組みの中でネガティブな感情をくすぶらせている人間の、最後のあがきと暴発。この処女作では、アイデアはまだきわめてシンプルな状態で、IT業界の高給会社員だからそれほどルーザーにも見えないが「モテない男」であるため性的にはルーザーで万年飢餓状態の二人が「俺らをコケにした若い娘を殺してやろう」と仕組むが失敗する、というもの。最後に主人公が鬱病になる。こうやって書くと、なんだか凡庸な作品であるように見えるかもしれないが、『素粒子』『プラットフォーム』へと飛躍していくための動機はダイヤの原石のようにこの作品の中にしっかり埋まっている。この原石がもう少し磨かれ、『素粒子』『プラットフォーム』に発展すると、性的ルーザーの主人公が、「カルト」(素粒子)「クラブメッド」(プラットフォーム)というペラペラで茶番な仕掛けの中に入り込み、とりあえずの性的満足を得たように見えるが、そのチャチな舞台装置はあっという間に吹き飛ばされてしまう、という皮肉な皮肉な物語になっていく。何が素晴らしいかって、ひと昔前のフランス文学なら、現代物質社会へのアプローチは「倦怠」「神経症」「逃走」どまりだったろうが、西欧社会という舞台自体の不確かさ、そこで踊ってること自体のくだらなさにまで意識が向かってるところがウエルベックの凄さだ。それに、あくまで平易に書いてあるのもいい。平易に見せかけてて、実は凄い地平まで行っている。薄めたヒューマニズムだのっていうナマクラな感情に流れがちな日本人は、とにかくウエルベックを読むべき。ヒューマニズム的誤読を受け付けない強さがあるのがウエルベック作品だと思う。(文=目黒条