受信口

なんでも録画可能な世の中、映像がこれだけ出回る時代に、どういう理由で舞台芸術をやるのかというと、やはり「生(なま)」(つまりライブ)ということになんらかの儀式性があるからだと思う。演者本人が生き神さまのように観客の目の前に現れて、修正も取り直しも消しゴムも許されない一回きりの演技をすることにこそ価値がある。そして、そんな大変なことをするのは、天から何かを受信するためなのだ。
山海塾の、世田谷パブリックシアターでの今回二つめの演目『とき』を見てきて、つくづくそう思った。天児さんには、いつも作品を通じて本当にいろいろなものをいただいているけれど、今回の二演目ほどはっきりと具体的に「宇宙」が受信されるのを感じたことはなかった(今回最もそう思ったというのはあくまでもわたしが自分で成長したせいであって、過去の作品との比較というようなことを言う意図はありません)。宇宙とか言うと電波系かと誤解を招くかもしれないが、要するに「この踊りは、生を寿いでいるものなのだ」というはっきりとした感覚を感じた、ということです。
舞踏が誕生した時代に、文学者たちが舞踏に夢中になった理由がよくわかる。ダンスを見ていると無限に言葉が生まれるのだ。今日、「とき」の、舞台上に吊られた巨大なリングを見ていて、わたしの場合はあっちの世界と繋がっている三次元世界の「破け目」が言語中枢にあるのだけど、それぞれ違う破け目を持つ人々の、共通の「受信口」みたいなものがあのリングなのかもしれない、とふと思った。(文=目黒条