時の超克

ふたつ前に『冬物語』と『父帰る』のことをちらりと書いた続きです。
芸術作品の目指すところは、大枠のところで「時間・空間の超克」だと思う。プルーストはマドレーヌだかタルチーヌだかを媒介にして時間を超えた。精神的虐待を受けた果てに死んだんだと思っていたハーマイオニの銅像には生命が宿って、失われた時がマジカルに召還された。出ていったお父さんが突然帰ってきた。…などはすべて時間を超越するから面白いわけだ。
SFは、かつて科学の発達を一歩前で予言できていた時代には「時を越えて未来に連れていってくれる」使える飛び道具として人をワクワクさせた。でも、テクノロジーの発達の方が先に行ってしまってSFは予言機能を失い、衰退していった。(それじゃあ今度はレトロの方に向かうか?ということで「時代小説」とか「昭和ブーム」とか、安易にベクトルを過去に向けると、後ろ向きに時を超克できた気になるので、最近はそちらが流行っているということ、なのかもしれない。)
果てしなく現在を空費しているように見えるわたしたちの日常。「別に空費じゃないんだよ、働いて換金してるんだからさ…」ということで、皆自分を納得させようとして、毎日の時間を消費してコツコツ生きている。でもそれだけじゃつまらない。そこで、「未来予言に胸ときめかす!」「過去へのノスタルジーに酔いしれる!」というのを持ってくると心ときめく。それだけでも「時間の超克ファンタジー」あるいは日常の退屈からのウェイクアップコールとして機能する。それはそれで、はかないけど効能があるのだ。
しかし、わたしは最近はっきりと気づいた。過去・現在・未来はバラバラではなく渾然一体となって溶け合っているものなのだ。すぐれた「時間の超克」作品の中では、それらは全部混ざり合っている。実は時間というのは、自由に召還できるものなんだ、一方向的にただ流れていて「過ぎちゃったら終わり」というものではないのだ、ということを完全に理解すると、人は力を得る。
「空間の超克」については、また項目をあらためて書きたいと思います。(文=目黒条