本の実用性

今は全般的に本が売れない時代らしく(と言っているのは風評を聞いて言っているだけで、自分で数字を調べたわけではないのだけど)、しかしその中で比較的「元気」そうなのは新書だと言われる。「軽い薀蓄」として明日すぐ使える情報を今の人は求めてるというわけだ。
「軽い薀蓄」だけが好まれる傾向は、ネット時代のスピード感と関係があるだろう。時をさかのぼって学園紛争の時代とかには、何かというと延々「議論」するのが流行だったので、「理論武装」し、議論ネタを増やすことが大事で、ガツンと重めの、難しそうな本が売れた。たとえ読んでなくても、とりあえずそういう「知性」を仕入れてますよという威嚇は絶対に必要な時代だったので、アクセサリーとしてでも小難しそうな本を小脇にかかえてることが大事だったのだろう。だからそういうゴリゴリな本が売れた。しかし、現代においては誰も時間をかけて議論などしないので、よって議論ネタも不要だということ。それより、話しても一分で終わり、一瞬だけ他人を「へえ」と感心させられそうな薀蓄がウケる。
じゃあ、文学などというものは「軽い薀蓄」的な「実用性」が全然ないからウケないのか? いっそ薀蓄を合間合間にはさみこんだ文学でも書く? テレビの情報番組のように? ――そういうペシミズムがいかにも生まれてきそうだが、わたしはそんな風には考えない。
英語の方のブログにも書いたとおり、わたしは最近、大昔の日本の和歌を毎日三十分ほど勉強するのを趣味としている。たとえば鎌倉時代なんて、インターネットがないどころの騒ぎではなく、グーテンベルク活版印刷術すらまだない、要は本も雑誌も新聞もない時代だ。その情報のなさ、時の流れのゆっくりさ加減の中で、「じゃあ娯楽ないじゃん」という感じだったかというと、全然そんなことはなかったということが歌から明確に伝わってくる。当時のインテリたちは高度な言葉遊びだのという知的ゲームを駆使して、まるでパイクのビデオアートのように?移りゆく季節を独自の視点で切り取り、またありがちな感傷だの感情を、言葉の曲芸を使って、驚くような個性的モノローグに仕立ててみせたりしているのだ。「知的コードの共有」「モノローグの共有」という、現代文学にも通底する基本がこの時代に豊かに存在していることに驚嘆させられる。
知的コードと独自のモノローグを共有できるものこそ、コミュニケイティヴな芸術である――このことに照らすと、文学もこの二点をきちっと意識して豊かになっているものなら、新書でペラペラな内容のものなど及びもつかないほど「実用的」なのである。簡単に言うなら、知的なモノローグをどういう風に心の中で展開させるかを学ぶ、というか。子供のとき太宰治とか読むのも、村上春樹読むのも、この「内的モノローグの言い方を学ぶ」という意味があったのだと思う。軽く書かれたペラペラな新書で学んだ薀蓄は一分でついえてしまうが、共有されたモノローグはものすごく長持ちするし、場合によっては一生ものだ。
テレビの情報番組が、納豆情報捏造事件で衰退していったのを見ればわかるように、「科学的」なもので「簡単に実用できる」話はそんなにたくさんはないのだ。捏造しない限り。新書のコンテンツが今どこまで学問的と言えるのかわからないが、ことほどさように、素人に簡単に解説して「へえ」と面白がってもらえる学問ってそんなにたくさんはないはずだ。だから、新書が売れて文学が売れないなどという話をわたしはいっさい信じていない。むしろ、仕事や会話や人間関係のスピードが極端に上がった時代に、個人が心でスローにじっくりつきあえるものといったら文学のほかにないのでは、と思っている。(文=目黒条