コロッサル・ユース

 長らくひきこもっていて、ふと気づけば、観ようと思っていた映画『ジョイ・ディヴィジョン』(じゃなかったか?『さらばイアン・カーティスの光』?題名失念…)もとっくの昔に終わっていた。残念。
 で、まったく毛色の違うアート系の映画、ペドロ・コスタ監督『コロッサル・ユース』を見てきた。ご推察のとおり、ヤング・マーブル・ジャイアンツ世代なのでタイトルに激しく心ひかれ、それで足を運んだ、というのもあります。いや、映画にYMG的なポップさを期待したのではなく(もっとドキュメンタリー的/芸術的な映画だという程度の予備知識はあった)、わたしもcolossal youthというのの語感の文学性というかバロック性(いびつさ)というか、そういうものが大好きで、そんなタイトルをつける監督はなんとクールなんだろう、きっと素晴らしい作品にちがいない、と思って。
 そして予想どおり素晴らしかった。リスボンの廃墟や集合住宅の中で延々と繰り広げられる、呪詛のようなモノローグ。そらんじた手紙の反復。閉じた空間の中での何の希望もない人生を、じーっと描いていく。モノローグの言葉が堂々巡りしていく、そのアウトラインからじわじわ焼くようにして、生の意味をいぶり出す――そんな感じがするスリリングな作品だった。
 それでわたしはモノローグということについていろいろ考えました。たとえを戯曲にすると単純でわかりやすいと思うのだけど、ニール・サイモン作品みたいな「二人以上でやりとりする洒落た会話」と、パトリス・シェロー作品みたいな「一人で喋り続けるモノローグ」とでは、前者に近づくほど社交性があって開けており(別の言い方をするとエンターテイニングであり)、後者に近づくほど内的で閉じている(別の言い方をすると純粋芸術的)。どちらが偉いということではなく、「会話」は状況など全体の構造を見せるのに適していて、「モノローグ」は何かひとつの観念・想念を徹底的に掘り下げるのに適している、ということ。小説などでは、これらを適宜ミックスさせて効果を追求するわけですが、映像はずるい、というか羨ましいことに、これに視覚的「空間性」をくっつけることができる。コロッサル・ユースは、この特性を最大限に活かし、「居住空間」という場における魂の彷徨を、みごとクリスタライズしたわけです。(文=目黒条