極陽

 かつて「強度」なんていう言葉が流行したことがあった。これはフランス語のアンタンシテを訳したものなんだと思うけれど、まあ物理っぽい感じじゃない文脈では「強烈さ」と訳した方がわかりよいと私は思う(前にも書いたかも?)。さらにわかりやすくするならば、「芸術の強烈さ」というのは、「ものすごく陽気なさま」と言い換えてもいいんじゃないか、と思っている。80年代に「滅茶滅茶陽気やで〜」という合いの手をいつも入れてる漫才の人がいた。そんな感じ。
 たとえソリッドな内容を扱っていても、テーマが、一般的には「暗い」と思われがちな死とかであっても、それを極端に陽気に扱うのが芸術なんだ、と思う。陽気じゃないと扱えない、というか(陰気に死を扱ったら、そのまま死にひきずりこまれてしまうから)。人はそういう、極陽の発露こそが見たいわけだ。
 ふつうの生活の中では、それほど陽気ではないことの方がむしろ多いので、人間はいつだって「極陽」に触れることでエネルギー・チャージをしたいと思っている。だからお笑いがこれだけ栄える。俗に言う「芸能人オーラ」っていうのも「あふれる陽気さ」と翻訳可能で、だからこそみんながそれを欲する。あと、別に笑顔でやってなくても、前衛的表現とかってめちゃくちゃに陽気じゃないとできないものだろう。
 日本の自殺した小説家なんていうのは、この辺のことを自ら「躁病」っぽくなることでクリアしようとし、バランスを失って死んだんだろうなと最近しみじみ思う。自死こそ極陽の発露だ、って考え方もなくはないだろうけど、そこまで行ってしまうと痛ましい。
 東洋では「中庸」をよしとするのが基本の健康法だ。もちろん、普通に生活していく分にはこっちの生き方の方が安全。でも、「極陽」を作り出すのが仕事になってくると、中庸とは無縁の次元に自分を持っていかなきゃいけない。そこで「躁鬱の波を利用!」みたいな危なっかしい方法論を用いる人も出てくるわけだが、そうではなく長続きする「極陽」生産体制を自分の中に作り上げる方が賢い。どういう生産ラインというか生産工場のようなものを自分の中に持てば成功するのか?は人によって違うのでしょうが。(文=目黒条