拍手しない症候群

 最近、劇場の客席にいて不気味に思うのが、芝居が終わってカーテンコールになった時、まったく拍手をしない若者がよくいる、ということだ。このところ、本当にたびたび見かけるようになった。拍手拒絶というのは通常の文化的コードの中では「全然気に入らなかった!」という意志表示だと思うのだが、拍手しない若者たちの場合そうではないらしく、隣席にいる友人などに「こないだの○○も面白かったけど、これも面白かったね」などと話しているのが聞こえたりする。なんだ、面白かったんじゃん。(この発言からもう一つわかることは、なんだ、日常的に芝居を見てる「演劇ファン」なんじゃないか!ということだ。実際に劇場に足を運んだことがなく、拍手というマナーを知らない、ということでもないのだ。)
 実のところ、彼らは芝居には別に文句はなく、「でも拍手とかって、別に自分がしなくてもいいし…」と思ってるだけなのだ。「感激した」という情動が、「賞賛の意志表明」という動きにつながっていかない。「ていうか、手、痛いし。」みたいな感じだろう。「だってチケット買ってて客なんだし、別に手が痛いのやだと思ったら、拍手しないのは自由でしょ?こっちは客なんだから」そう思って、周囲の人々が拍手してようがお構いなしに、ただ黙ってヌーッと座っていたり、またはカーテンコールの時間をコート着るなどの帰り支度に「有効活用」している。
 拍手しない若者たちの姿は、「モンスター・ペアレンツ」と呼ばれる、倫理観やマナーを欠いてるくせに「消費者意識」だけが強くて学校にすぐにクレームを言ってしまう、という親たちの像とも、ちょっとダブる。すなわちこれは、戦後民主主義教育の「成果」だ。学校でなんの文化的コードも教えず、ただ「みんなが平等」「誰もが横ならび」ということだけに気を配って、消費社会を肯定していれば、当然こうなるだろう。「金払っている場合は、客なんだから何しても自由!何を言っても自由!」という場で好き勝手に振舞うのは、モンスターペアレンツの場合、実は格差社会の憂さ晴らしだったりするのかもしれないが、拍手しない若者たちの場合は単になんの屈託もなく「文化的コード無視」「消費者意識だけ」という事を実践しているから、より不気味だ。
 戦後民主主義教育の中では、生徒たちはみな平等、ゆえに突出した才能というものは存在しないことになっている。だから、芸術的に優れた人たちに喝采を送るなどというメンタリティが、そもそも生まれないのかもしれない。生身の人間が演じる演劇であっても、それは金で買ったエンターテインメントであり、それを観たのはDVDやゲームを買ったのと同じ「娯楽」パッケージ消費行動にすぎない。演劇の場合だけ、手を痛くして拍手するなんて、なぜ? そんな理由ないだろう?ということになるのだ。しかし、たぶん彼らもスポーツ観戦でスタジアムに行ったなら歓声も上げ、拍手もするんだと思う。それは、テレビなどで「観客の熱狂も娯楽パッケージの一部」と刷り込まれているからだ。でも、暗い客席で拍手するなどという「自発的」「文化的」な行為は、パッケージの範疇ではない。いくら周囲に拍手してる人々がいても、そういう「空気は読」まない。そこは仲間うち社会とは違う場所だから、なにもそんなものに参加する必要はないと思ってるのだ。
 また、拍手しない症候群のもう一つの発生要因として、学校行事の場などで大人たちがビデオ撮影をするようになった、ということがあるかもしれない。運動会で組体操とかの演技が終わっても、ビデオで両手が塞がった親たちは拍手ひとつしない。若者たちだけではなく、親にしてからが拍手しない症候群になりつつある。何をやっても拍手されないのが当たり前、と思って育った子供たちは、他人に対してもまた、何をやっても拍手しないのが当たり前、というのを返すようになるだろう。
 最近、戦後民主主義教育を「仮想敵」にしている感じのわたしだが、何も本当の意味での「デモクラシー」が嫌いなわけじゃない。まして「偏向教育」が好きなわけでは絶対にない。ただ、地域共同体をはるかに越えてワールドワイドウェブで繋がれてしまっている茫漠とした世界の中、どうやって「カルチャー」が存在し続けるか、という問いの大きさに比べ、日本の教育はあまりにスケールが小さく消極的・非文化的で、それに危機感を覚えている―ということだ。(文=目黒条