消費社会と文化

 以前書いた「ヤン的なるもの」の続きを急に書きたくなったので書きます。
 この間は、「ヤン」と「エリート・高収入層」の分離社会になってしまった日本について書いた。しかし、その先のもっと大きな問題というのは、ヤン層もエリート層も、消費を享受することこそが幸福だと思っている点では、実は同じ穴のムジナだということだ。
 日本は戦後「思想的な傾向を持つのは危険なことなんだ」という警戒心を身につけた。その結果、民主主義教育は「中立的でなければいけない」ということになった。ところが、それがどんどん「何のフィロソフィーもない」という状態に変質していった。日本人は「消費」という思想信条以外には持てない状況に追い込まれていったのだ。
 ペーパーテストで高い点数をとることに長けた人間になり、大きな家を買ったり高い車を買ったりして消費社会の「上質な」部分を享受しましょう、というアイデアに共鳴すれば「消費社会のエリート」になる。いや、勉強なんて面倒くさい、バイトをすればバイクも買えるし、という考えの人は「ヤン」層に吸収され、深くは考えないけどそこそこ消費に参加できる労働者階級となる。
 消費社会にフィットする心性というのは「深く考えないで、楽しく生きる」ということだ。だから、別に本なんか読まず、内容のないテレビの娯楽番組を見て、あとはゲームを楽しみ、格闘技や車を趣味として、カップラーメンとか食べてダラダラ生きる、というような生活態度は、実は消費社会的には大いに歓迎されるものだ。
 アメリカのように、プロテスタンティズムに裏打ちされ、人々が常に「ウィナーかルーザーか?」と問われる消費社会と、何のフィロソフィーもなくダラダラしている日本の消費社会とは大いに違う。世界的に見ても、日本ほどフィロソフィー不在になっている国は珍しいのではないかと思う。宗教についても教育せず(信仰するしないとは別に教養として聖書や神話を教えればいいと思うのだが、それは一切ない)、他のアジアの国々のように「儒教」のような道徳観も教育現場には登場させず、「まあ、普通にしてるのがいいよね」「そこそこやればいい」「やりすぎは困るよね」「空気読もうね」というダラけた同調主義だけを蔓延させているのが日本だ。
 「文化」の末端にいる者として、わたしが最近本当にヤバいと思っているのが、教育を通じて宗教とか神話とかいった「象徴体系」を一切教わっていないためにハイカルチャーカウンターカルチャーも理解できず、文化に向かうという態度が「娯楽の享受」にすり替わってしまっている日本人がものすごく増えているということだ。テレビを唯一の教養として受容し育った人々は、「面白ければいいよね」という消費社会的気分を信念として生きている。そういう「無カルチャー・エンターテインメント社会」になんの疑問も持たずにその中でダラダラし続けている人々は、世界基準の「文化」を理解するだけの知的コードを身につけていない、身につけようとも思わない、「そんなの関係ねえ」「欧米か!」と呟いて終わる。
 このままだと日本は、ハイカルチャーもない、カウンターカルチャーもない、そもそも文化が一切ない国になってしまうような危機感を感じる。
 たとえばの話で演劇を例にあげると、日本では幸いにして、公共劇場が砦となって「芸術的なもの」を保護しようとしてくれている。これはすごく素晴らしいことだと思うのだが、はなから知的・文化的コードを身につけていない人々ばかりになってしまうと、受け入れる素養がない人にそんなの見せても全然理解されないじゃない?という話になってしまう。
 同じことが芸術の各ジャンルについて言えるだろう。そんな中で、作り手側は消費社会との折衝点をなんとか見つけてやっていこうと、みんな努力していると思う。今のうちになんとか教育の中にきちんと「教養」を組み込んでもらわないと、未来はえらいことになってしまう。教育現場に、復古調のファシズム的スローガンを持ち込むなどとんでもないことで、そんなのじゃなくて「文化的教養の復権」に今すぐ着手しなければだめだ、と本当に本当に強く思っている。(文=目黒条