ヤン的なるもの

 頭を丸めた坊やと、おっかないほど眼光鋭く、要するにわかりやすい「人買い」の顔をした男――この二人の会見なんぞが大きなニュースになってしまうというところから、突然気がついた。単純すぎる「わしらヤン○ーだが、ヤン流で世界一をめざして何が悪い!」というストーリーがこれほどまでに支持されてきた意味――それは、日本社会の中でかなりの割合を占めるヤン層が、鬱積したエネルギーをものすごい勢いで増大化させていたんだ、という事実の証明にほかならない、と。
 すべては戦後民主主義の崩壊から始まった――という、最近のわたしのテーマともいえるストーリーについて、ここで詳述すると長くなるのでごく簡単にさらうと、戦後、「身分はみな平等ってことで、皆さん横並びになりました。あとは偏差値が高い人がエリートってことにしましょう」ということになったが、プロテスタンティズムの裏づけなくこれをやるのは無理があった。「受験戦争」に最初からついていけない子どもたちは不満を鬱積させ、八十年代始めまでにヤン勢力を拡大。その表出の場が「校内暴力」などだった。
 だからヤン○ーというのは実は歴史が非常に浅いものなんじゃないか、と急に気づいた。ヤン文化は八十年代ぐらいから急に目立ち始め、また「商品化」(なめネコとか)もされ始め、消費社会の中で一定の存在感を示すようになった。(高度経済成長によるマテリアリズムの成熟とも多いに関係があるだろう。)ヤンは、昔からいるような「不良」よりは中途半端な存在だ。つまり中学卒業後すぐに暴力団に入るようなハードコアな不良と必ずしもイコールではない。そして、成人後は必ずしも反社会的な存在にはならず、大半はまともな職を持ち経済活動に参加する。ただ「ヤン的なる精神」を持っているところだけが「ヤン」たるアイデンティティーなのだ。
 上のように定義される今のようなヤン層が明確な形で発生してから、まだきっと四十年も経ってない。
 偏差値競争の勝者として「サラリーマン社会エリート主義」の側に組み込まれた人々は、ヤンが大嫌いである。ヤンもまた、高収入なエリート層に対し「今に見てろ、一攫千金で成り上がって、あいつらより偉くなってやる!」というような敵意を常に燃やしている。この二つの層は、水と油のように完全に分離している。今はやっている「格差社会」という言葉はちょっと定義がブレていて、正確に描写するなら「分離社会」という方が適当なのではないかと思う。収入や身分の「格差」なんか、いつの時代にだってどこの国にだってあるが、人々が何を「信念」として生きるかという点で二派に分かれ、それによって社会がセパレートドレッシングのように完全に「分離」してしまい、完全なディスコミュニケーションに陥ったところが最近の日本の異常な事態なのではないかと思う。
 今思えば、短い言葉でわかりやすげなメッセージを発してきた小泉ポピュリズムは、数的にかなりの影響力を持つヤン層を積極的に取り入れる戦略だったのかもしれない。もしヤン的な方が街頭でテレビのインタビューを受けたとしても「なんか変えてくれそうですよね」とか簡単にコメントして別にいいんだ!というような空気を作ったから。しかしヤン的な方々はたぶん現総理は大嫌いだと思う。だから今後の社会において、「K田家」のようなものは前以上に求められてくるはず。ゆえに人買い氏のビジネス的判断は大変に正しい。(文=目黒条