個人的な題材はない

 このごろ立て続けに、「個人的な体験」をモチーフにした作品を翻訳しているのでちょっと考えた。仮に単純素朴な物言いをしてみると、いかにも当人の実人生の切り売りっぽいものと、フィクションではどちらが「えらい」のだろうか? 実人生をそのまま書いてしまうのは露出狂的・露悪的だとか、あるいはフィクションの方が「考えるのが大変」なのに対して体験そのまま書きは安直だとか、そういう理由でフィクションの方が「えらい」でしょうか? それとも、自分が裸になってまでもあえてリアルで真剣な気持ちをそのまま世に出す方が、経験の断片を寄せ集めてデコレーションを施した不正直なフィクションより「えらい」のでしょうか?
 こういう考え方をチラリとでもしたことがあるところが、いかにも日本人だなーと自分で思う。たぶん、高校の国語の時間に「はい、志賀直哉私小説です」などと習ったことと関係があるんだろう。日本近代文学の「私小説」という一ジャンルが、「私」を描くのは特例なんだな、という誤解をさせている。それは、そういうのを書いた人が悪いのではなく、そういう風にカテゴライズした人が悪いのだけど。
 大人になって気づく、戦慄の事実。いわゆる「私小説」的に、実際に自分の生活に起こったことを題材にしたところで、それは全然「個人的」な経験なんかじゃないのだ、ということ。それは何が教えてくれたかというと、マーケティングリサーチやテレビだ。すごくプライベートなことだと自分で思ってる生活のディテールは、実はある消費階層の、ある消費行動として全部誰かが予測ずみのことなのだ。何を見ても「あるある!」と言ってしまうわたしたち。昔の文士の無頼な行動ですら、「文士の消費行動の一典型」をなぞっているのにすぎないのだとしたら。実は純粋にパーソナルなことなんかありはしないし、「わたし」に似た生活をしている他の人は同じ階層内でいくらでも見つかり、「パーソナル」な生活には遺伝子のちょっとした違いほどの違いもないのかもしれない。
 というわけで、逆説めくけれども、パーソナルなことを書けば書くほど、実際には「個」という思い込みから離れていき、集合的無意識?の次元に行きやすい、という考え方もできる。言い換えれば、現代では、溶解していく個を見せる方がよりリアルで、ありもしない「わたしの感性」という鳩を出そうとする素人手品は宴会芸にもならない。とわたしは「個人的に」思っている。(文=目黒条