サラ、いつわりの祈り

 メイクしてないマリリン・マンソン見たさにシネマライズに行き『サラ、いつわりの祈り』。そういうくだらぬ動機のことなどすっかり忘れてしまうほど、予想よりはるかにレベルの高い、心揺さぶる映画だった。自身の少年時代を書いたJ.T.リロイの小説に基づき、アーシア・アルジェントが自らの不幸な少女時代を重ねて主演・監督したと聞いて、「悲惨」をてんこ盛りにしたエモーショナルな作品なのだろうか、という先入観を持ったが、とんでもない、ちゃんと抑制がきいていて素晴らしかったです。というわけで別にエモーショナルな感情移入を誘おうという映画ではないのだが、それでもやっぱり「思い出したくもない悲惨な子供時代」「子育ての資格などない自分本位な母親」という両面からあまりにも自分に思い当たること多く、映画館を出て幸せ家族みたいのを横目に「てめえらの小市民的幸福などくそくらえ!」「幸せなやつらにこの気持ちがわかってたまるか!」などと心の中で悪態をつきながら渋谷の町を歩いたわたし。しかし、逆説的だが、この映画はとっても「幸せになれる映画」かもしれない、というか幸/不幸の観念を変える映画かもしれない。つまり、母親が男をとっかえひっかえし、身体を売ったりドラッグやったりしまいに薬で発狂したりすれば、世間は「悲惨ね」「不幸ね」とかわいそがるだろうが、実のところ、絶対的不幸みたいな土壌の上に立って生きている方が、ぬるーい小市民的「幸福」の上にうそ寒く生きてるより、いっそよい(人生を理解しやすい)のかもしれず、そのように幸/不幸というのは輪郭が曖昧な、よくわからないものなのだ。この作品の原題はthe heart is deceitful above all thingsつまり、「心というのは何よりも騙すものだ」という言葉を示唆的に引用している。人間は、ひどい、苦しい、悲しい、と思いながらも「これしかないんだからこれが幸せなのかも」と自分を騙してしまう、環境適応能力のようなものを持っていて、苦しみを与えた張本人である母親を、じゃあこの少年が100%嫌いであるかというと、実はかなり愛してる面もあったりするのだろう。…この映画は、ロリータ(ナボコフの)風に常に移動している一種の「流転もの」なので、少年と母親以外は全部通りすぎていく登場人物で短い時間しか出ない。でもその脇役すべてひねりのきいた贅沢なキャスティングがなされていて、狂信的クリスチャンの祖父にピーター・フォンダ、ボーイフレンドの一人にマリリン・マンソン(素顔は単なる不健康そうなおじさんだった)、ちょっと頭の足りなそうな人マイケル・ピット、児童心理カウンセラーにウィノナ・ライダーなど、どれも「やってくれた!」と膝を叩きたくなる。ハーモニー・コリンの『ガンモ』から青臭さを取り去って大人にしたような、大好きな映画だった。わたしにとってはこの時期、オタク向け絵空事アドベンチャーを見るよりはこっちを見る方がはるかに自分の気分にフィットするのではと思って選んだのだが、まったくもって、間違いではなかった。(文=目黒条