芸術の意味2

本とか映画とか芝居とかいったものを「退屈な日常から離れ、しばし別世界を垣間見る」ためのもの、つまり単純なる娯楽だとみなすのは、ワーキングクラス的な考え方だ。それは、ウィークデイは辛く退屈な単純労働に明け暮れているけど、週末にはクラブに行くんだ!というような『さらば青春の光』みたいな(もう少し有名なところで言うと『サタデーナイトフィーバー』みたいな)、「気晴らし」に人生の意味を見出すライフスタイルに通じる。
または、本とか映画とか芝居とかいったものが、「批判精神でもって、既成概念に風穴をあけるんだ」みたいに思っている人もいて、そういう人たちは「単純なる娯楽」よりそういう方が高度なのだと信じているのだろうけど、それも実はまだまだ幼稚な考えである。
ところで、「唯幻論」というのがある。ごく簡単に言うと、この世はすべて幻さ、目先の流行だとか、自分が属している集団の信念だとか、社会のイデオロギーだとか、みんなみんな幻想ではないか、ひいては国家だってカルトみたいなもんだし…という、ある意味ではペシミスティックな考え方。
それと敵対(?)すると一般的に思われているのが、「唯脳論」で、これまたごく大雑把に言うと、多幸感も鬱も、人間心理のすべては「脳の働き」として説明できるんだ、という思想。
唯脳論が「科学的、物理的」で、唯幻論は「人文的、ロゴス的」という、対立的なイメージがあるが、実はオカルト系の人なんかは、「父と子と精霊」とかいうのと、脳の話をするのとに、全然齟齬がないということをよく知っているはずで、実際のところ、両者は敵対するものではないと思う。
あらゆる政権は転覆するもので、しょせん「幻」にすぎないロゴスの世界を、人間は、日和りながらむなしくわたっていく。そういう社会に対して虚無的になると、人は「唯幻論」にどんどん偏っていく(人文系インテリというのは一般的にこっちに行きがち)。
その状況を、「そういうの、もう物理的にドラスティックに変えちゃおうよ!」となると、人間心理までもサイエンスでコントロールできるんじゃないかという話になっていく。…それが行き過ぎるとティモシー・リアリーLSDで意識変成!)とか、戦後の日本のヒロポンブームみたいな話になっていく、というコインの裏面もなくはないけれど。
で、わたしが最近はっきり思ったのは、本当にすぐれた芸術とは、唯脳論の領域で語られがちな、右脳的「多幸感」を、左脳的な領域と立体的に混ぜ合わせながら、ナチュラルな状態で得られるようにしてくれるエキサイティングなものなのだ、ということ。つまり、人間が、社会生活の中で経験した事象―つまり、天下国家だの歴史だの文化だのといった複雑なロゴス界のあれこれ―をひきずったまま、そういう社会的記号に紐が、それこそ「コード」が繋がったままで、そして自分の中で層をなすその文化的な観念を積極的に生かした状態で、ものすごいユーフォリアに突入できる! それこそがすぐれた芸術の力だ。
「生の意味を実感したい」という人間の欲求が、サブスタンスによる科学的なハイでもなく、宗教の機械的な「ワーク」による意識変成でもなく、自らの中に層をなす知的コードごと、丸ごとでナチュラルハイ!という風に満たされたならば、それが人間存在にとって最も高度なハイなのだと思う。
こんなことを愚直に語る人はあまりいないと思うので、この場を借りて「超入門篇」として書いておきました。一言付け加えておくと、十九世紀の文学を主な教養にしてきた世代などは、「ロマン主義的ハイ」こそが唯一の芸術のナチュラルハイだと勘違いしている場合があるので注意。(文=目黒条