揺れ動く同性婚

アフリカ系アメリカ人の大統領誕生という大きな前進の陰で、カリフォルニア州では、一度認められた同性婚がまた違法になるという大きな「後退」が起こった。「リベラル派は、オバマ当選でもう十分満足でしょう?あとはもう我慢しろ」と?
婚姻制度というものについて、いろいろと考えるところ多く、それはまたわたしの次の(『免罪符に』の次の)小説のサブ主題にもなっているので、この話題には鋭く反応。(個人的には、別に今後もう異性婚も同性婚もするつもりはないのだけど。)
同性婚がもうすぐ違法になりそう、というタイミングで、ゲイカップルが大急ぎで届を出してインスタント結婚式?を挙げている映像がアメリカのニュースで報道されているのを見ていたら、その多くは「じいさん同士、ばあさん同士」という感じだったので、なるほど、法的に守られたいと思うのは主に「老後」の問題に直面したときなんだな、と実感した。老後と、あともうひとつは、養子を育てる「親」になったとき。「うちの両親は二人とも女(男)だけど、でも合法的に結婚してるんです」と学校で言えるのと言えないとでは、子供の立場も大違いだ。
アメリカでの同性婚合法化は、「平等」の思想と「キリスト教」的信条に親和性がない、というところで頓挫している。「子供を持つ」「自分たちが死ぬ」という二大ポイントで、人は法律または宗教に依拠を求めるもので、あなたはそのどっちを取るの? 両立はありえない? どっちが強いの? という話になってきているわけだ。
「生と死」が何によってオーソライズされるか、というのは永遠不滅の、そして普遍的な大問題だと思う。一人ぼっちで向き合うには「生と死」は重過ぎるよ…と泣きそうになったところで、「ほらほらほら、だから宗教あるんじゃん!小手先のリベラリズムとか、どいたどいた!わたしの出番だ!」と宗教がしゃしゃり出てくる。「生と死」というものに直面して心が弱っていた人は、「そうか、そういうもんなんだよね、宗教こそ生と死のパスポート発行機関だったんだよね!」と素直におすがりすることにする。…その「宗教」のところを「システム」で埋めようとすると、それがいかなるシステムであっても、実は精神的にはちょっと弱い、という面があるのかもしれない。
既成の宗教には従わないよ、フリーダムだよ、とやって生きてきた人は、いざ「死」に直面すると、すごく精神的に弱るような気がする。…といっても、わたしは「宗教がやっぱり偉い」とか言いたいのでは全然なく、ただ「論理的構築」だけでは済まなくなるのが生と死なんだということがここで言いたいだけ。
で、オルタナティブとして、手前勝手な、一人一流派の「個人宗教」を一生かけて構築していくこと、を提案したい。既成の宗教を否定するものではないが、一般的に宗教というのは、権威ありげに、難しそうに見せないと間が持たないもんだからといって、単純な真実をものすごく面倒くさい戒律だなんだに落とし込んで複雑化している。そういうものに与することは「時間の無駄」だとわたしは思っている。だから個人宗教で十分だ。それをゆるやかに現実に調和させてくれるものが法であってほしい。くだらない二項対立の時代は、もうとっくに終わっているのでは。
しかし、「揺れ動くイデオロギー」というこの話題はわたしにとって本当にタイムリーだったなと思う。12月に出る『免罪符に』はまさしくこういうことをテーマにしているのだ。『免罪符に』、もうビーケーワンには出ていて驚いたけど、興味があったら是非予約してみてください。(文=目黒条