貸しバラ

翻訳がわたしの脳内から脱出し、人手にわたって現実のものとなりどんどん動き出すと、「あーよかったよかった」と嬉しい一方、「大変な思いをして出産したのに…」とちょっと寂しく思ったりもする。翻訳って要するに「借り腹出産」みたいなものだ。というか、こっちが「貸し腹」をして他人の子(作品)を日本語で出産しているのです。
自分の小説と翻訳とを同時にやろうとしたこの夏、「そんなに一度に出産できません…!」という感じで大変だったけど、ポジティブに受けとめるなら、翻訳から小説に移行するときは「やったー、自分の意思で書いていいんだ!自由なんだ、神様ありがとう!」と思い、小説から翻訳に移行するときは「やったー、原稿は既にあるんだから安心だ!真っ白い空間と格闘して悩む必要もないんだ、神様ありがとう!」と思える……というのもある。けれども、それらが全部、わたしにとっては出産であることに変わりはない。
翻訳が人手にわたって動きだすとき、「えー、でも私があんな思いをして生んだ子なのに…」とか言っても、「ていうか、あなたの作品じゃないでしょ!」と言われればそのとおり。妊娠・出産は、自分の子と同じ手間と苦労でやったものの、元はといえば他人の受精卵を自分に移植しただけで、DNA的には他人の子だ。パートナーとの出会いとか交際とか、そういう部分はすべてすっとばして「いきなり受精済み」というところから始めている。
だから勘違いして「母はわたしなんです」とか口走ると、社会的にはすごく怒られてしまいます。本当に文字通りの「貸し腹業」をやっている途上国の貧しい女性たちより、クレジット入れてもらってる分幸せなんだと思え、ってところです。(文=目黒条