複製の複製

 先日亡くなった有名な作詞家の方を追悼するような企画があちこちでなされている。それでふと、かつての「歌謡曲」とそのトポスである「テレビ」について考えた。
 あの作詞家さんはたぶん推測するに、文化的教養がとても高かった人だと思う。この方のみならず、テレビ創生期の放送作家などは皆さん、まだ「教養」が問題にされた時代の文化的フロント・ランナーだった。そういう人たちが一生懸命になって、大衆向けに練り直した「文化」をテレビの中に、まるで牛乳にヨーグルト菌を入れるように植えつけた。それがかつてのテレビの仕事だった。歌謡曲というのも本来、洋画や小説などの世界観の大衆向けエッセンスを三分間にまとめた、いわば「文化の複製・簡単版」のようなものだったんだと思う。それはすごくわかりやすかったし面白かったため、人口に膾炙した。
 生まれた時からテレビを見ていた人々が大半になった現在、あの作詞家さんが作ったような「大衆向けの文化の複製」を文化的経験の(唯一の)よりどころとしている人が大半になってしまった、というのもまた事実だと思う。そして、複製の複製をまたテレビ内で繰り広げるような薄まった文化が蔓延した。ひとつの種から増やしつづけたヨーグルトも、半世紀以上経つとそろそろヤバい。元の味が再現できないところまで変質してしまっている。
 テレビ創生期の人々にはなんの悪意もなかったのに、たまたまそんな世の中になってしまったんだと思う。かつての日本がテレビ番組を真面目に作りすぎてしまったことがかえって災いしたのだ。テレビ番組が甚だしくつまらない、という国の方でむしろ、ハイカルチャーが生き残っている。日本にはそれがまったくといっていいほど残っていない。オックスブリッジ帰りみたいな学者さんが説く括弧つきの「ハイカルチャー」を、大衆が「へえー、そんなのあるんですね、初めて聞きました!」という感じで拝聴している、それが今の日本の文化状況だ。(文=目黒条