セクシャル・ファンタジーとしての「右」

 今朝はABCのクレイグ議員「わたしはゲイじゃない」会見の映像に見入ってしまった。また出ました、「ホモフォービアのタカ派隠れホモセクシュアル」。これはわたしを惹きつけてやまない不可思議なテーマだ。
 ゲイであることを公表しているリベラル派、というちゃんとした人はいくらもいるわけで、そういう立派なホモセクシュアルから見たら、「私はヘテロセクシュアルで伝統的な家庭を築いて、家族の大切さを説教しています」などと言いながら、隠れてコソコソ、男子トイレなんかを舞台に性犯罪まがいの行為をやってる奴というのは許しがたいはずだ。というかヘテロでも誰でも、この自己矛盾には単純に呆れる。
 しかし、たぶんこれは、よく言う「だって、手錠をかけられて襲われるというファンタジーの中で、襲ってくる人はやっぱり制服着てナチの帽子を被った人じゃないとグッとこないでしょ。リベラル派じゃ興ざめ」とかそういう感じなんだろう。つまり、ファシズム的・男性的なものへの憧憬=性的嗜好、というマインドセットになってる人は、リベラル・革新・平等・均等・女性的・共産主義などのイメージを全部ごっちゃにまとめて、そういう興ざめなもの、大嫌い!と全否定するのだ。私はもちろん、こういう人にはまったく共感できないが、このテーマを追求していきたい気持ちは強烈に持っていて、本当、今こういうことが面白くてたまらない。いつか絶対形にするつもりだ。(文=目黒条