イザベラの部屋

 4月6〜8日に彩の国さいたま芸術劇場で上演される、ヤン・ロワース&ニードカンパニー『イザベラの部屋』の字幕をわたしが担当させていただきます。ベルギーからの招聘公演で、ピナ・バウシュ風に「タンツテアター」と呼ぶのもありかもしれないけど、コンテンポラリーダンスというよりはほとんど演劇寄りという感じがする舞台。ジャンルなんかどうでもいいけれど、わたしはこれを観て、マギー・マランの『レボルシオン』やテアトル・ド・コンプリシテの『ルーシー・キャブロル…』を観たときに近い衝撃を受け、夢中になった(←と、また記録映像見ただけで発言してますが)。まあ、こんなことを言っただけでは今挙げた演目を観てない人にとって無意味なので、補足すると:
 同じさいたまでこの間上演されたヤン・ファーブル作品と比較すると――ファーブルはファイン・アートの人だけあって、はなからハイカルチャー?っぽい構えで来るから『わたしは血』は決して万人にとっつきやすいものではなかった。でも、同じヤンさんでもヤン・ロワースは、80年代のユーロロックっぽい懐かしい香りのする音楽を使いつつ、とても大きなテーマに、とても易しい言葉で取り組み、すごく間口の広い作品を作り上げたのではないかと思う(ユーロロックとか言うと誤解を招くかな?要はスラップハッピーみたいな、狙った緩さのある、でも思慮分別に富んだ、めちゃくちゃにセンスのいい音楽ということです)。
 『イザベラの部屋』のテーマは、一言で言うと「二十世紀の総括」だろうか。芝居としては、一人の老女イザベラが自分の生きてきた人生を語るという内容だ。出てくる物のうち例えばアフリカの遺物などは、ヨーロッパの植民地主義の罪悪感の謂なのかもしれないし、ひとつひとつの場面はそれぞれたいへんに寓意的だ。でも、この芝居、決して小難しいことは言わない。屁理屈も言わない。その代わり、わたしたちは「歩いて歩いて歩き続ける」つまり、ただ単に生きていくのだ、という途方もない哲学に貫かれている。これは、単純なポジティブ・シンキングなどとは全然違う、深い悲しみに裏打ちされた、ある種の悟りだ。このぐらい深い洞察力で、力強い作品を作られると、本当にわくわくするし、本当に感動してしまう。是非皆さんも、四月にさいたまに感動しにきてください。
 コンテンポラリーダンスが(演劇でもそうだが)「美学」中心に展開していく時代はもう終わったような気がする。あと、「このわたしの、ひりひりする内面の痛みを見て!」「このわたしの狂気を見て!」というような自己中心的な表現もとっくにアウトだ。世界の大きな意味に向かって開いている『わたしは血』や『イザベラ』のような成熟した表現を見ていると、おお、ここまで行かねばもう駄目なのだ!と強く思う。(文=目黒条