血について考えなければならない

 『わたしは血』について、昨日はあまりに断片的な感想しか書かなかったので、自分にとって大事だったことを少しメモしておきたい。
 西洋はキリストの受難に始まり、十字軍だの何だの血みどろの戦いあり、肉食だから狩猟とか屠殺ありと、もう全体的に血なまぐさい歴史を持つ。しかし考えてみたら、西洋に限らず、世界中どこの土地にも、詳細の違いはあれ残虐で血なまぐさい歴史がある事に変わりはないわけで、すべての人間は本質的に「血なまぐさい血」を持っているのだ。
 「人間が血を内包しているという前提が厳然としてあること」「血は血であること、血以外のものでありえないこと」を、ヒューマニズム的解釈をいっさい加えず、そのままの形で表現するという偉業――これをヤン・ファーブルは成し遂げたように思う。「血」を「だって血ですから!」と丸ごとの形で提示する芸術表現というのは、ものすごく勇気のいることのはずだが、これがうまくいっているからこの『わたしは血』という作品は特殊にすごいのだ。ここには「残虐はいけないね」などという陳腐な批判性は一切ない。「エロスをことほぐ」とか「生への賛歌」とかいう安っぽさも全くない。あくまで、世界の中に血があるという事実の克明な観察をしているのだ。冷徹なゴーリー主義(こういう文脈で駄洒落か?)で、血の本質を徹底追及。大人の芸術とはかくあるべきだと深い深い感銘を受けた。(文=目黒条