チャーリーとチョコレート工場

 ようやく昨日見てきたティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』。以前の日記で、原作のレトロ性(工業化と資本主義ばんざい!という時代の恍惚と不安)をティム・バートンがどう処理するか楽しみだ、と書いたが、結局そこは曖昧にごまかされていて、それがウィークポイントになっている感じだった。つまり、いつの時代の話なのか、なにがテーマなのかわからない、ちょっと変なものになっていたということだ。もちろん、凝りに凝った美術は面白く、貧乏な少年の家がカリガリ博士の家のように歪んでいたり、といった視覚的な魔法はティム・バートン好きをとりあえずは喜ばせるものだろう。でも、それだけではなく、現代の視点、彼独自のまなざしで、テーマにシニカルに切り込んでみせてほしかったと思う。ちょっと残念。
 70年代の映画『夢のチョコレート工場』を何から何まで踏襲したら「今やる意味」がないというのはわたしにもわかる。最後が「貧乏な少年に資本家になる夢が転がりこみましたとさ、おしまい」という単純なアメリカン・ドリームでは現代の商品(ビッグ・プロダクション)として通用するものにはならない、という事情もわかる。それで、とりあえず「ヒューマニズム」「家族愛」を加えてみました、ということなのだが、それがなんとも原作の奇形性と親和しなくて、とってつけたようで、見ていて居心地が悪かった。まあ『ビッグフィッシュ』の後だから、こうなるしかなかったのだろう。ビッグフィッシュ前の、ある種のオタク性・子供っぽいナイーブさから一歩踏み出し、シュールレアリスティックな要素は持ち続けつつも「父と子」という大テーマも取り入れてティム・バートンが大人になった!というのが『ビッグフィッシュ』の瞠目ポイントだった。せっかくそこで評価されて梯子を一段のぼったのに、また一歩下りてオタク界に逆戻り、というわけにはいかないに決まっている。周囲も「ヒューマニズムもokなティム・バートン」「安心して見られるティム・バートン」というプラスイメージを保持させようと頑張るだろう。でもそれが裏目に出て、いろいろと配慮しすぎて、テーマも時代もあやふや、毒気も薄まり中途半端、というとても生殺しな商業映画になってしまった感じがする。
 たとえば、テーマのレトロ性と、設定が現代というのとの齟齬を埋めるために、ウンパルンパにちょっとお懐かし風の音楽で踊らせたりして、トータルな印象がチグハグなのを地ならししようとしている(作り手側は「いいアイデアでしょ」と大得意なのだろうが)のもわたしは厭だった。この仕掛けはまた同時に「小人」の「奴隷」というのがあまりにもpc(ポリティカリー・コレクト)的にまずいので、「いやいや、彼をエンターテイナーとして扱っているのであって、奴隷として扱ってるわけじゃないんです」ということにする、そのための仕掛けにもなっているのだろう。全米ナンバーワンになるための処理を全部すませて、目黒のさんまのように骨抜きになった状態で供され、思惑どおりにちゃんとヒットした――それはそれでサクセス・ストーリーなのかもしれないが、わたしはこれに賛成票を投じる気にはあまりなれない。わたしはティム・バートンを貶す気なんかない、むしろ大好きで思い入れがあるので言っているんだけれど…この映画が『マーズ・アタック』や『エド・ウッド』ほどの水準に達していないことは認めざるを得ない。というか、期待しすぎたのかな。(文=目黒条